−其の弐−

 林昌寺参道の細い道から、大通りに出ます。この通りから簡単に入れたんですね。
思いっきり遠回りしていましたよ。(汗)
 館林に引き続き、何のために地図を持って行ったのかわからない私でした・・・

 右の写真は、参道に咲いていた花。背丈の高い花で、2メートル近くあったと思います。
 キク科の紫苑かな〜と思うのですが、どうでしょうか。

 この道を少し歩くと、小さな橋を渡ります。この川は胡桃沢川といい、吾妻川の支流のひとつです。

 小さな川ですが、橋が高いところにあるためか、ちょっと渓谷のような風情がありました。
 手前の木の紅葉も始まっていて、なかなか良い雰囲気。

 このあたりから緩い坂を上ります。しばらく歩いて右手に入ると、中之条町歴史民俗資料館があります。
 この資料館の建物は、明治18年に開校した吾妻第三小学校の校舎で、県指定重要文化財なんだそうです。
 外壁は塗り直され、新しい建物のように見えますが、随分古いものなんですね。

■旧吾妻第三小学校校舎■
 この建物は、全国的不況下の明治十六年着工、県令揖取(かとり)素彦、吾妻郡長真野節らの指導と町民のひたむきな努力により工費5,200円余をかけ同十八年十月四日完成した。設計者は不詳であるが明治十五年に出された学校建築心得に準拠して設計された凹字形、木造、大壁、寄棟造り、二階建、床面積は632.8平方メートル、外観は洋風、内部の構造様式などは和風が濃厚で、施工者は当町の樋田栄太郎である。
 その後女子尋常高等小学校の時代を経て、対象七年九月〜昭和五十三年十二月まで町役場の庁舎に使用してきた。昭和五十三年十月県指定重要文化財となり、昭和五十五年度から二年継続事業で保存修理工事を行った。群馬県にただ一つ残された明治洋風小学校建築の貴重な建物である。
(中之条町歴史民俗博物館案内板より)


 ここの開館時間は9時。10分ほど前に到着してしまったのですが、係の方が入っても良いと言って下さったので、お邪魔させて頂きました。ありがとうございます。
 入口は、この建物と続いている右側の新築された建物です。簡単な説明をお聞きして、エレベータで2階へ。エレベータを出てすぐのところが企画展会場です。

 入口近くには、真田氏支配以前の吾妻郡の歴史についての展示もありました。『関東幕注文』に岩下衆の旗頭として登場する斎藤憲広公の小さな木像は、子供のようなお顔でなんとも可愛らしかったです。
 岩櫃城から出土したという鏃(やじり)には透かし彫りがあり、武器ながら作った人物・所有した人物の風流心が偲ばれますね。この鏃が発見された時にエピソードも面白かったです。

 この企画展では、展示されていた系図から幸隆公の出自は海野棟綱公の次男説を推奨しているようです。ここで購入した図録によると、根拠は『加沢記』とのことでした。
 このあたりには、幸隆公の肖像画や武田二十四将図などが展示されていました。

 武田二十四将図にはさまざまなものがあり、図によって選出されている人物が違います。
 ここで展示されていたものは松代の真田宝物館蔵のものであり、真田家からは信綱公(真田源太左衛門)・昌輝公(真田兵部)・昌幸公(武藤喜兵衛)の三兄弟(昌幸公の下に弟2人います)が登場・・・だと思っていたのですが、この図録には
『幸隆・嫡子信綱・三男昌幸(武藤喜兵衛)』と書かれています。
 私の思い違いだったのかなあ・・・当日のブログにも前述の3人で書いているし、ちゃんと見たつもりだったけど。(汗)
今まで、幸隆公・信綱公・昌幸公のものって見たことがなかったのですが・・・幸隆公が描かれているものには昌幸公は登場せず、昌幸公が描かれているものには幸隆公は登場していなかったような。

 ということで不安になった私。ネットで調べてみたところ、人物の配置やポーズなどが展示されていたものとほぼ同じ二十四将図を見つけました。こちらの絵の方が随分と古そうなので、真田宝物館のものはこれを参考に描いたのでしょう。
 この図には幸隆公は描かれておらず、三兄弟が登場しています。
やっぱ、思い違いじゃなかったのね。(笑)

 何点も展示されている書状の中でも古いと思われるのは、武田信玄公による幸隆公への知行宛行状(天文19年・1550年)です。
 この書状は、武田軍の数少ない敗戦・砥石(戸石)崩れの直前に与えられたもので、砥石城攻略が成功したら、上田に領地を与えると書かれています。

 其の方年来の忠信、祝着に候。
 然らば本意の上に於いて、
 諏方(諏訪)方参百貫并びに横田遺跡上条、
 都合千貫の所これを進し候。
 恐々謹言。
 天文十九庚戌
  七月二日 晴信(花押)
   真田弾正忠殿

 (実物は漢文)

 前述のように、砥石攻めは失敗に終わってしまうわけなのですが、翌年には幸隆公は真田の手の者だけで砥石城を攻略し、この書状に書かれている土地を手に入れています。
 小県郡から追われて10年、故郷へ錦を飾ることができることになった幸隆公の感激は、例えようのないものだったと思います。

 この書状、大きなシミがあったり変色したりと他の書状に比べてかなり傷んでいるのですが、その分長い歴史を感じさせてくれますよね。450年以上前のものですので、現存しているだけでもスゴイと思いますよ。
 これは真田家の歴史上、特に大切な書状です。ここから
『信濃に真田あり』が始まったんですものね。
 これだけ古いものが散逸せずに残っていたことを、松代代々のご領主さまに感謝しなくては。

 真田宝物館に展示されている書状は写しの場合が多いのですが、今回の企画展で展示されているものは、写しだとの記述はなかったので、本物だと思います。

 真田宝物館所蔵品以外にも、武田勝頼公・上杉謙信公・北条氏政公などが上州の武将に送った書状も展示されていました。
 勢力を伸張したい三家にとって、上州は足がかりになる重要な土地。周囲の三強が、いかに上野を狙い、上州の武将を自軍に取り込もうと躍起になっていたかがわかり、面白いです。

 書状や肖像画以外にも、真田氏ゆかりの史跡の写真なども展示され、説明が付けられていました。中でも、『真田氏領域図』は興味深く見させて頂きました。
 真田氏は信州出身ですが、
領地としては上州の方がずっと広いんですね。信州の2倍以上ありそうです。そして、真田領は上州の1/3以上を占めています。山地が多いので、石高は低いのですが。(汗)

 武具や甲冑のコーナーで一際目立っていたのが信之公所用の甲冑(左の写真)ですね。『色々威胴丸具足』と言うのだそうです。
 この甲冑の威糸は青の濃淡を中心にし、兜の吹き返しや草摺・袖・喉輪などにも彫刻を配した、とても華麗なもの。
 戦国末期の甲冑ではあまり見られない鳩尾板(左胸)や栴檀板(右胸)まで付属し、大き目の袖と相まって、大鎧のような風格があります。
 実戦向きではないと思われますので、儀礼用または武士のたしなみとして江戸初期に作られいたものではないかと思われます。

 もう一領の信之公の甲冑は、図録表紙にも使われている『萌黄絲毛引威二枚胴具足』。しかし、全体的に黒っぽく、どう見ても萌黄色ではありません。
 松代文化財ボランティアの会編集『真田宝物館への招待』という本に、この甲冑についての記述がありました。

 真田家の道具帳によれば、初めは紺糸威であったが、
 享保年間(1716〜36)修理の際に萌黄糸に直したとある。


 上記の文とは逆に思えるのですが・・・その後にもう一度直されたのでしょうか。
 この甲冑は全体的にはシンプルで実戦に使われたと思われます。この点についても、上記の本に記述がありました。

 信之は、この鎧を着て上田合戦など多くの戦いで奮戦したとされ、
 由緒ある鎧として伝承されきたものである。

 兜の両側には透かし彫りの飾りがついています。これは『唐冠』という様式で、安土桃山時代には多く見られます。松代藩の家老であった矢澤家にも、昌幸公の従弟にあたる頼康(頼幸)公所用と伝わる唐冠の兜がありますね。

 他にも、信之公所用だという六文銭の入った軍配団扇、表と裏に『天(乾)』と『地(坤)』の卦の入った鉄扇や馬具、矢澤家伝来の甲冑・馬印・獅子噛(兜の飾り)、信玄公から拝領したという法螺貝・陣鐘・諏防(諏訪)大明神の軍旗なども展示されていました。 天(乾) 地(坤)

 また、群馬県ゆかりの戦国時代の資料として、井伊直政公が箕輪城主だった時に仕官した上州武士の兜や軍配、上州の刀匠作の脇差の展示もありました。

 ここまでが企画展の内容なのですが、この資料館には常設展示の中にも真田関係のものが数多くあります。武田氏・真田氏関係の資料や写真、真田に仕えた吾妻の忍者に関する展示など、興味深い展示物が盛り沢山でしたね。
 吾妻郡から出土した土器や石器、仏像・神像・板碑などの仏教関係資料、近世の生活用具など、真田以外のものも沢山展示されていました。
 これだけのものが見られて200円。他では考えられないほどの安さですよ。
こんなに安くて良いんですか・・・?

 どのくらいの頻度で企画展を開催しているのかわかりませんが、これからも真田関係の企画展をして頂きたいですね。

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