−其の参−

 中之条に行く前には、駅で降りれば見えるだろうと思っていた嵩山は、周囲の建物に遮られていて、全く見えませんでした。(汗)

 資料館の帰り、大通りにぽっかり空いた空間から山が少しだけ見えました。
 何かの会社らしき建物はあったのですが、人の姿は見えません。なので、ちょっと敷地を通らせて頂いて、見に行きました。

 
この時には頂上しか見えなかったのでよくわからなかったのですが、後で頂いたパンフレットを見ると、やはり嵩山でした。

 この嵩山には、幸隆公が攻略した嵩山城(嶽山城・岳山城・武山城)がありました。
 永禄6年(1563年)、西城州の堅城・岩櫃城を落とした幸隆公は、永禄7年(1564年)には本格的に嵩山城攻略を目指して動き出します。

 嵩山城を守っていたのは、岩櫃城主であり岩櫃落城により越後へ落ちのびた斎藤憲広公の末子・城虎丸。

 この名前、私は『じょうこまる』だと思っていたのですが、『しろとらまる』とふってある本もありますね。本当は、どちらなんだろう・・・

 この城虎丸を助けていた重臣・池田佐渡守は、城虎丸の助命を条件に幸隆公に和睦を持ちかけ、和議がまとまりました。
 しかし、翌年には父・憲広公と共に越後へ赴いていた憲宗公が嵩山城に入城し、弟・城虎丸と合流して岩櫃城奪還を企てます。
 これを察知したのか、幸隆公は斎藤氏との再度の和談を申し入れ、人質の交換をしています。そして、前述の池田佐渡守を説得して味方に引き入れ、嵩山城から退去させた上で攻撃を開始しました。幸隆公お得意の、調略方法ですね。
 嵩山城攻めは激戦となり、真田軍・斎藤軍合計で300騎以上の戦死者を出し、夕刻になっても決着がつかず、斎藤軍は城へ引き上げました。

 正攻法では嵩山城を落とせないと考えた幸隆公は、夜になって城を包囲し攻め寄せます。
 真田軍が城に火を放ったため、もはやこれまでと悟った憲宗公は炎の中で自刃、城虎丸は血路を開こうと天狗の峯の岩山に駆け上ったものの敵兵に発見されたために岩から飛び降りて自害、城内の一族郎党や女子供も、山頂の岩から飛び降りて自害しました。
 憲宗公は38歳、城虎丸は18歳であったと伝わっています。


 上記は、みやま文庫の『真田氏と上州』を参考にしました。
 2枚目の写真は、群馬原町駅近くから見た嵩山です。

 中之条から電車で群馬原町へ向います。
 この2駅間の距離は2km程度。JR吾妻線は本数が少ないため、
時間が合わなかった歩いて行こうかとも思ったのですが、ちょうど良い時間に駅に到着しました。これに乗れなかったら、次の電車は1時間20分後・・・(汗)

 ほんの数分で群馬原町に到着。駅から見えるこの山が、幸隆公が攻略し、後に真田氏の西城州の拠点ともなった岩櫃城のある岩櫃山ではないかと思われます。
 でも、本で見た写真は角度が違うためか、もっと岩っぽいんですよね。
 隣の郷原駅まで行けば、写真で見慣れた岩櫃山の姿が見られるのではないかと。

 岩櫃城を幸隆公が攻略したのは、前述の嵩山城攻略の2年前の永禄6年(1563年)。城主は、吾妻の有力な武士・斎藤越前守憲広(基国とも)公で、越後の上杉謙信公に従っていました。

 岩櫃城は岩櫃山の中腹にある天然の要害、武田軍としては数年前からたびたび攻撃をしているものの、なかなか落とすことができません。ここで、やはり登場するのは幸隆公の調略です。
 岩櫃城に籠もる斎藤氏配下には、信州を追われた時に保護してくれた一族の羽尾幸入道と、その弟の海野長門守と能登守がいました。
 幸隆公は、海野兄弟と斎藤一族の弥三郎を口説いて内応させ、夜半に憲広公の館に火をかけさせます。
 混乱に乗じて城内になだれ込んだ真田軍の勢いに、憲広公は自刃しようとしましたが嫡子・憲宗公に説得され、謙信公を頼って越後へ落ち延びました。

 斎藤氏が没落した後、岩櫃城は信玄公の命により幸隆公が預かり、後に幸隆公の推薦により海野兄弟を城代としました。
 昌幸公の時代には、海野兄弟は謀叛の疑いをかけられて討伐され、それ以後は大坂の陣の前年に信之公により廃城となるまで、真田氏の西上州の拠点となりました。

 群馬原町駅から少し歩いたところに顕徳寺があります。普通の住宅地の中にあるお寺で、観光客は行きそうにないところ。なので、
散歩中の父子に不審な目で見られていたような・・・(汗)

   


 天正10年(1582年)、織田・徳川が甲斐に攻め込んできた時、昌幸公は武田勝頼公に岩櫃城に退くことを進言しました。
 この場では承諾した勝頼公は、受け入れ準備をさせるために昌幸公を先に岩櫃城へ向わせます。
 昌幸公は、勝頼公一家を迎えるために岩櫃城搦手付近に御殿を建てましたが、当の勝頼公は小山田信茂公の岩殿城を頼って行って裏切られ、天目山のふもとの田野というところで、妻子と共に自害しました。
 その後、御殿は潜龍院という寺になり、移築されて顕徳寺の本堂になったそうです。


 現在では建て直され、当時を偲ぶべくものはないのですが、このエピソードだけで顕徳寺へ行ってしまいました。(笑)

 武田家滅亡に際しての昌幸公の行動については、
すでに武田家を見限り北条家と交渉を持っていたと言われていますし、実際にそういった文書も残っているのですが、真田家を存続させるために『武田家』は見限っていたものの、勝頼公一家を助けたいという気持ちは本物だったのではないかと思っています。

 その時々で主を変え、『表裏比興の者』を呼ばれた昌幸公ですが、
本当に『主家』だと思っていたのは武田家(または信玄公)だけだったと思います。他は、家を守るために便宜上従っただけ。
 織田家・北条家・徳川家はともかく、上杉家・豊臣家にはそれなりに恩を蒙っていますが、
本気で『主家』だと考えていたとは思えないんですよねえ・・・

 まだまだ時間があるので、近くを流れている吾妻川を見に行きました。
 道に突然現れた大きな朱塗りの鳥居をくぐった先には、小さな八坂神社があります。
 神社の由来については案内板のようなものがなかったのでわかりませんが、あの鳥居を見ると、かなりの由緒がありそうですね。

 八坂神社手前を左折し、細い坂道を下ります。すぐ下を川が流れているらしいのですが、木立で遮られて川が見えません。川へ降りられそうな道もなし。
 諦めようと思ったのですが、右折した道の先に畑へ下りる道があったので行ってみることに。
 でも、この道も畑の先は崖っぷちでした。(涙)

 平地で生まれ育った私は、川は土手を上り下りして行くものというイメージなのですが、
山地の川は土手がなく、突然真下を流れていたりするんですね。(汗)

 河原に降りてみたかったのですが、どうもムリそうなのでここから川を撮影。
 勝手に畑に入り込んでしまってすみません。
農作物を荒らしたり人に危害を加えたりはしませんので、お許し下さいませ。(汗)

 八坂神社まで戻ると、神社前の民家の側溝に錦鯉が泳いでいるのを見つけました。
 何故、こんなところに錦鯉が・・・と思ったら、塀には『新潟県山古志村のニシキゴイ』という看板(?)が。

 旧山古志村(現在は長岡市)は、一昨年10月の中越地震で大きな被害が出た村です。
 東吾妻町と旧山古志村がどういう関わりがあるのかはわかりませんが、錦鯉の産地だったという旧山古志村の復興支援のためなのでしょうか。
 あの地震から2年、旧山古志村や他の土地の被災された皆さんが、一日も早く元の生活に戻れることを願ってやみません。

   

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