−信之の妻−

◆正室・小松殿(大蓮院)(1573〜1620)
 実名は稲姫か。徳川家重臣で「徳川四天王」のひとり本多平八郎忠勝の女。信之の父・昌幸が徳川家に属した後、天正17年(1589)頃に沼田城の信之に嫁ぐ。その際に家康の養女となったとも秀忠の養女となったともいう。まん・まさ・信吉・信政・信重の母。女子のみ小松殿が産んだ子であるという話もあり、その説では信吉の母は側室・真田氏で信政の母は側室・右京ということになっている。
 慶長5年(1600)8月、会津征伐軍を抜け上田へ帰る昌幸・幸村父子が沼田城へ寄ろうとした際、櫓上から「舅殿と言えども夫の留守中に入城させるわけにはいかない」と父子を一喝、父子は沼田城へ入ることは諦めたと言われている。
 昌幸一行はそのまま上田へ向かったとも言われているが、小松殿は沼田城下の寺を父子の宿として侍女を派遣し手厚くもてなしたという説もある。
 晩年は徳川幕府の人質として江戸で暮らしていたが、元和6年(1620)2月24日、幕府の許しを得て上野草津(群馬県草津町)へ病気療養に向かう途中、武蔵鴻巣宿(埼玉県鴻巣市)で死去した。享年は48歳。墓は鴻巣市の勝願寺にある。上田市の芳泉寺、長野市の大英寺、群馬県沼田市の正覚寺にも供養塔と霊廟がある。
 真田家と徳川家の架け橋となって生きた小松殿の死は、夫・信之を「わが家のともしびが消えた」と嘆かせたと言われている。

◆側室・真田氏(?〜?)
 伯父・信綱の女で信之の従姉妹にあたるこの女性は信之の最初の妻だったと見られている。家康の命で小松殿が嫁いできたために側室に格下げされたものか。信之の長男・信吉は真田氏が産んだ子であるとの説もある。

◆側室・右京(?〜?)
 玉川氏出身説と京の商家出身説があるが詳細は不詳。信政はこの女性の産んだ子であるとの説もある。小松殿亡き後の信之を支えた女性。



−信之の子供たち−

◆長女・まん(1591〜1647)
 母は小松殿。天正19年(1591)9月に沼田で生まれる。
 高力忠房の妻となる。
 正保4年(1647)没。享年は57歳。

◆次女・まさ(見樹院)(1593?〜1673)
 母は小松殿。文禄2年(1593)8月に沼田で生まれる。文禄4年(1595)生まれ説もある。
 信濃飯山藩(長野県飯山市)主・佐久間盛次の妻となるが、元和2年(1616)夫が亡くなり実家へ帰った。上田(長野県上田市)では西の台に住んだために「台殿」、松代(長野県長野市)では二の丸に住んだために「二の丸殿」と呼ばれ、父の隠居時には父と共に柴村に住んだために「柴殿」と呼ばれたという。
 延宝元年(1673)没。享年は81歳。

◆長男・真田信吉(1595?〜1634)
 母は一般的には小松殿と言われているが、信之の最初の妻だったと思われる側室・真田氏(信之の従姉妹)ともいう。文禄4年(1595)に沼田で生まれる。文禄2年(1593)説、慶長1年(1596)説、慶長2年(1597)説もある。通称は仙千代・孫六郎・蔵人。
 慶長19年〜20年(1614〜1615)の大坂の陣には病床だった父の名代として弟・信政と共に出陣した。
 大坂の陣が終結した翌年(元和2年・1616)、信吉は父・信之が上田城に移ったため沼田城主となる。
 寛永11年(1634)11月28日、江戸で没した。享年は40歳。墓は沼田の天桂寺にある。
 正室は上野厩橋城(群馬県前橋市)主・酒井忠世の女・松仙院で長男・熊之助を産む。慶寿院(依田氏)や他の側室との間に長女(千種有能の妻)と次男・信利をもうけた。信利は沼田五代藩主となったが、悪政や不正行為などからお家取り潰しとなった。

◆次男・真田信政(1596?〜1658)
 母は一般的には小松殿と言われているが、側室・右京だという説もある。慶長元年(1596)11月に沼田で生まれる。慶長2年(1597)生まれ説もある。通称は百助・内記。幼少時に徳川家の人質として江戸へ赴く。
 慶長19〜20年(1614〜1615)の大坂の陣には病床だった父の名代として兄・信吉と共に出陣した。
 元和8年(1622)に父が上田から松代(長野県長野市)へ移封となった時、一万石を分知され松代分封初代藩主となった。
 寛永15年(1638)に沼田三代藩主・熊之助(兄・信吉の長男)が幼くして亡くなったため、翌年沼田四代藩主となり、松代分封は弟・信重に譲った。
 明暦3年(1657)、父が隠居すると沼田は甥・信利(兄・信吉の次男)に譲り松代二代藩主に就任したが、翌万治元年(1658)2月5日、藩主となって僅か半年で急死。享年は63歳。墓は松代真田家の菩提寺・長国寺にあり、高野山蓮華定院にも分骨された。
 正室は上野伊勢崎城(群馬県伊勢崎市)主・稲垣重綱の女(後に離縁)。小野宗鑑尼(小野お通の女)、松寿院(高橋氏)、永寿院、自照院など多くの側室を持ち六男六女があったというが全て側室の子だったらしい。
 信政の急死後、三代藩主を決めるにあたってかなり揉めたようだが結局は信政の六男で数え2歳であった右衛門佐(幸道)が継ぐこととなった。

◆三男・真田信重(1599〜1648)
 母は小松殿か。慶長4年(1599)7月に沼田で生まれる。通称は隼人正。
 信濃松代分封藩主である兄・信政が寛永16年(1539)に沼田藩主になったため、兄から松代分封二代藩主の座を譲り受けた。
 信重は大力であり五寸釘を親指のみで柱に打ち込んだと伝わっている。
 正室は鳥居忠政の女であったが子供には恵まれず、慶安元年(1648)10月25日、信重が50歳で没すると松代分封は信之に返還された。正保4年(1647)2月23日に没したとの説もある。武蔵鴻巣(埼玉県鴻巣市)の勝願寺に墓が、松代の西楽寺に霊屋がある。

◆三女(?〜?)
 詳細は不詳。

◆四女(?〜?)
 詳細は不詳。


◇付記
 信之の子供たちの生年はいくつもの説があり実際のところははっきりしないが、一応「沼田記」の記述に沿っておいた。
 他にも江戸中期の北信濃の名僧・正受老人(1623頃〜?)が信之の庶子だったとの伝承もある。長野県飯山市には正受老人が住んだという正受庵が残っている。